自然と社会とフィールドは違えど、縄文人も現代人もそんなに変わらないということ。

昔、パーティの席の事。
全然面識のない男女でテーブルごとに固まりました。
見た目がチャラかったので、真面目アピールの為に「縄文時代についての本を読んでますよ」と言うと、
同席していた一部男性が「え、あのウホウホしてる人達のこと?」と小馬鹿にしてきて残念な気分になったことがありました。
その時に反論したこととまったく同じようなことが、先ほど読んだサバイバル雑誌に書かれていて、なんかあの時のイライラがよみがえったので記事にします。
まぁ、我々が縄文人を馬鹿にするのは見当違いですよっていうことです。
自分はなぜ働くのか?趣味嗜好の実現という側面もあるが、大前提は食料と寝床を得る為だろう。お金と言うシステムを一旦頭から切り離せば、縄文人も現代人も変わらない原理で生きている。
引用:『サバイバル読本』著;Fielder編集部
時代を問わず人は「食料」「安全に寝る場所」を得なければなりません。
それが旧石器人であれ縄文人であれ、現代人であれ、ヒトがヒトという身体システムを維持するために必要だからです。
有史以前と現代の違いと言うのは、こういった「生きる」為に必要なものを獲得・維持していくシステムが原始的か効率的であるかの違いに他なりません。
自然の中であるものを使って生き延びる有史以前と、社会的なシステムを構築し法と貨幣経済で効率的に生きる資源を確保する。これが大きな違いです。
私達は、生きるための資源を取りまくシステムが変わっただけで、結局のところ、生命の営みは変わらないし、根源で求めるものは違ってくるのです。
いま浮世は様々な悩み事で持ちきりだが、それでもなお営みの原点は至極単純なのだ。我々は今も昔もホモサピエンスであることに変わりなく、自ら発想し、創造して自然界を生き抜く術を持っている。それを楽しいと思える本能を宿しているのである。
引用:『サバイバル読本』著;Fielder編集部
それであれば、自然界から社会に生きるフィールドが変化しようとも、我々は「生きる」ために生き抜く本能を持っているということ。
また、生きるための発想や創造を楽しいと思える本能が身についているということ。
ただ、豊かな社会を生きる中で、その本能が鈍ったり眠らせたりしている人は多くなっています。鬱や自殺、無気力などのいわゆる現代病の出現は、本能と社会のミスマッチと無関係ではないでしょう。
もともと社会や経済などは「生きる為のツール」でしかありませんが、その社会や経済が「生きるためのルール」となってしまい、逆に「生きる本能」を吸い取られてしまっているのではないでしょうか。
社会を生きる上では色々な悩みや困難がありますが、その時は「社会のルールや人間関係は生きるためのツールに過ぎない」と考え、生きる本能を思い出すようにしてみるといいかもしれません。
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